どーも。今週は筋トレにキックボクシングに頑張りすぎて筋肉痛で身体バッキバキ、公平です。
さて、昨日の朝の出来事ですが、なんとなしに新聞を読んでいたら以下の一節が目に飛び込んできました。
誰ともつながれないのが「孤立」だとすれば、誰かと一緒にいながら独りであるのが「孤独」。「絆」には「傷」がつきものなのだ。なのに人は他人との関わりがリスクを生むと考え、深入りするのを避ける。そのことでかえってセーフティーネットに「穴」が開いてしまう。(朝日新聞:折々のことばより)
この連載は、京都市立芸術大学理事長・学長鷲田清一さんがピックアップした言葉を毎日紹介しているのですが、
僕は、この『「絆」には「傷」がつきものなのだ』という部分にピンときて、少し考えさせられるところがありました。
というのも、先週起こった「平成30年度北海道胆振東部地震」から、
「絆」の大切さを非常に強く感じた直後であったからです。
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【北海道地震】苦境にあっても、天を恨まず。平成30年度北海道胆振東部地震から感じた、人の奥底に眠る支え合いの心。【時々、まわりみち。】
そこで、今回はこの「絆(きずな)」ということについて、少し掘り下げて考えてみようと思います。
【「絆(きずな)」は「傷(きず)」を含む。】
早速ですが、そもそも「絆」って何なんでしょうか?
絆(きずな、きづな)は、本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。「ほだし」、「ほだす」ともいう。 人と人との結びつき、支え合いや助け合いを指すようになったのは、比較的最近である。
(引用:Wikipediaより)
やっぱり、思ったとおり、
- 人と人との結びつき
- 支え合いや助け合い
ということらしいですね・・・!
でも、NPO法人「抱樸(ほうぼく)」の理事長である奥田知志さんは以下のように語っています。
社会が無縁化した背景に自己責任論があります。個人や身内に責任を押し付けることで、社会の責任が曖昧にされてきた。他人とかかわることは、多少なりともリスクを負います。だから「かかわらないことが安全」と多くの人が考える。その結果、セーフティーネットに穴が開き、危険な社会となりました。社会とはそもそも人が健全に傷つくための仕組みだ、と僕は考えます。孤独が問題になっていますが、時に孤独も必要ではないかと僕は思います。「絆(きずな)」は「傷(きず)」を含む。
どうやら、奥田さん曰く、
支え合いや助け合いであるはずの「絆(きずな)」が「傷(きず)」を含んでいる
ということらしいのです!
・・・これは、一体どういうことなのでしょうか?
そのヒントになるのが、「孤独」というキーワードです。
独りでいられない人が誰かと一緒にいることを求めると依存的になる。主体性が脆弱だからです。人は誰かと一緒にいるからこそ、独りになれる。一方、誰ともつながれないまま独りになってしまうのが「孤立」。誰かとつながることと独りになることは一対なのです。
そもそも、「誰かとつながることと独りになることは一対である」と奥田さんは言います。
言い換えれば、人は誰かと一緒にいるときこそ孤独を感じるということですね。
これは考えてみれば、矛盾しているようで当たり前のことなのではないでしょうか?
たくさんの人と知り合いになってコミュニケーションを取った後などは、
特に、独りでいる時間がいっそう「孤独」を感じますよね。
つまりは、「絆」の中に孤独という「傷」があるということです。
しかし、この「傷」は避けるべきリスクということでは決してありません。
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孤独は、避けて通れない道。人と異なることを恐れず、自分の信念に確信を持つということ。【時々、まわりみち。】
上記で奥田さんが、
「社会とはそもそも人が健全に傷つくための仕組みだ」
と語っていますように、孤独は避けて通れない道なんじゃないかなと思います。
もちろん、だからといって自分が壊れるくらいに傷つくようではダメです。
だけど、あからさまに過保護に育っていては、
「傷(きず)」を含む「絆(きずな)」の素晴らしさ
を味わうことはないでしょう。
では、この他人との関わりから生まれる、
「絆」を深めていくためには何が必要になってくるのでしょうか?
【自分の評価軸を確立して、「絆」を深めていく。】
ここまでの話から、
「人との絆を深めていくのに傷つくんだったら独りでいることにしよう!」
・・・なんて考える方もいるかと思います。
だけど、ちょっと待ってください。
たった、一つのことだけ行えば良いのです。
・・・それが、「自分の評価軸を確立する」こと。たった、これだけで良いんです。
世間で言い尽くされている言葉ではありますが、人は独りでは生きることができません。
なので、大小さまざまありますが、いろいろと人との「絆」を深めていかないといけません。
その過程での「傷」を最小限に抑えたいならば、他人に振り回されない「自分独自のモノサシ」で評価することです。
もちろん「絆を深めること」は大切なことではありますが、まず自分の評価軸を確立することが先決だということですね。
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利他に生きる、その前に「利己に生きる」だろう。エゴと共存することが、協力し合う社会への道。【時々、まわりみち。】
最近とりわけ思うことがあって、結局のところ、
自分の人生に対し他人が責任を取ることないということです。
これは、別に他人を否定するどうこうの話ではなくて、
「みんな自分の人生を必死に生きているんだなぁ・・・」と思うからなんですね。
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キミが思っているほど、他人はキミのことを気にしてないよ。ほとんどの人が、自分だけのことで精一杯の毎日。【時々、まわりみち。】
だから、人とコミュニケーションを取るときに、僕は個人的に相手の立場とか感情とかを考えすぎてしまうのですが、
そんなとき「自分の評価軸で生きる」ということを思い出すと、周囲との関係もうまくいき「絆」も深まっていくような気がするんです。
もちろん、冒頭に述べたように、「傷」もつくことは多少なりともあります。
しかし、それ以上に「絆」の大切さを知ることもできます。
特に、今回の「平成30年度北海道胆振東部地震」では強く感じることができました。
その背景には、
自分でも気付かないほどの「しっかりした自分の評価軸」
があったのかなと思います。
なので、この「評価軸」は年を重ねるごとに少しずつ変化していくものではありますが、
まずは「評価軸」を確立し、日々の中で目に見える形で意識化していくのが良いと思います。
みなさんも、ぜひ他人(世間)の評価軸に左右されながら生きるのではなく、
自分だけのオリジナルな人生、自分の評価軸で生きてみてはいかがでしょうか?
それでは、今回これにて失礼します。
皆様に、心よりの感謝を込めて。
公平