どーも。平日の仕事前のスポーツジム通いが習慣化しつつあり嬉しい限り、公平(@Dray_0629)です。
さて先日のこと、僕の好きなMC・アフロさんとアコースティックギター・UKさんの二人組ユニット『MOROHA』さんの曲の中で、
『三文銭』というMV(ミュージックビデオ)を聴いていて、最後に最後にアフロさんのアツい気になったこんなセリフがありました。
「人生は1列繋ぎのオセロ」だって。
「生まれた瞬間に喜びの白を置き、その後、痛み、苦しみで黒が並ぶ。それでも、もう一度だけ、死ぬ間際でもいいから、もう一度喜びの白を置けたら、それまでの黒は綺麗にひっくり返る」って。 俺、この間、そんなこと言われた。
ふざけんじゃねぇ、って思った。そんな簡単じゃねえんだって思った。だけど、だけど、あなたと同じく、ほんの少しだけ思い当たる節があったから、それをどうにかこうにか信じてみようと思ったんだ。
(引用:MOROHA「三文銭」MV - YouTubeより)
この歌詞を聴いていて、そのときは「たしかにな〜」と妙に納得したものの、
ちょっと後で思い返してみて「ん?はたしてホントにそうか…?」と改めて感じました。
ということで、本日は「人生=オセロ?」ということについて少し考えてみたいと思います。
【本当に「人生はオセロのようなもの」か?】
なにやら調べてみると、この「人生=オセロ」論 は浸透しているみたいです。
人生のどこかで白を置くことができれば、それは、最後の最後でも良い。なんなら、死ぬ間際だって良い。それでも、最後に、白を置くことができれば、 黒は、全部白に変わる。なぜなら、その白は、苦しみや悩みがあったからこそ置くことのできた白だから。その白は、すべての黒に支えられた白なのだ。
(引用:夢をかなえるゾウ(水野敬也 著)より)
これって、たしかに「言い得て妙だ!(笑)」となるんですよね。
人は生まれたとき誰でも、祝福の生まれてきたことに対する幸福の「白」を渡される。
だけど、そのあと嫌なことを経験するたび、どんどん「黒」が置かれていってしまう。
これらを最後に「白」で挟むと、全部が「白」になりオールハッピー になる…
ということを考えれば、やはり「人生はオセロみたいなもの」となりますね。
しかしながら、先ほどの『MOROHA』さんみたいに「そんな簡単じゃないんだ!」という意見があるのもわかります。
たったひとつの「白」で過去のすべての「黒」がひっくり返るほど人生はシンプルなもんじゃない、みたいな。
と、ここで前に読んだ新聞の記事でスクラップしていた「囲碁」についての話をふと思い出したのです。
【人生は…『囲碁アート』みたいなものだ!】
以前、新聞でチラッと見て脳の片隅に眠っていた記憶をムリヤリたたき起こしました(笑)。
それが、『囲碁アート』について。
ふと、「人生は『囲碁アート』のようなもの」なんじゃないかと思ったのです。
「囲碁アートって?」と聞きなれない単語を疑問に思う方がいらっしゃるかと思いますが、
囲碁アートとは、囲碁インストラクター・関翔一さん(@chitokunn)が考案された「碁石を使って作るアート」のことです。
(画像引用:ゲームマーケット『ここから囲碁するアート』より)
なぜ急に『囲碁アート』の存在がパッと浮かんだのかはわかりませんが、
結局は、「白」と「黒」が混ざりあっているのが人生、ということなんじゃないでしょうか?
別に、「白」を置いたから「黒」がひっくり返るわけでもなく、
逆に、「黒」を置いたから「白」がひっくり返るわけでもないですよね。
(短期的に「黒」ひとつでオール「黒」になると感じることはあるかも、ですが(笑))
そして、この「人生=囲碁アート」論を積極的に信奉している最大の理由としては、
ふり返って俯瞰視したときに人それぞれの「アート作品」ができあがっているからなんです。
一見、碁盤状に置かれた「白」と「黒」の碁石はランダムで不規則な置き方をされていると思いますが、
上から見てみると、自分では思いもよらないようなステキな作品(!)が気づけばできあがっているのです。
そんなわけで、人生には「楽しかったこと」だけではなく「悲しいこと」もたくさんあるのが当然ですが、
オセロのようにオール「白」とオール「黒」にしようとせず、全体のコントラストを楽しむことが必要です。
最初は乱雑に見えていた「白」と「黒」のカタマリが、いずれは自分オリジナルのアート作品になっていることに気がつくことでしょう!
それでは、今回これにて失礼します。
皆様に、心よりの感謝を込めて。
公平