どーも。4月の暖かい陽気のなか、少しお昼寝タイムを取るのが最近の幸せ、公平です。
本日は、
「あるべき(should)論」vs「ありたい(want)論」
について、思うがままに述べてみたいと思います。
【大人のあるべき姿などない。ありたい理想像があるだけだ。】
さて、よく言われる「大人のあるべき姿」とは、いったい何なのでしょうか?
周囲の意見を取りまとめる協調性があること?
仕事も順風満帆で温かい家庭を持っていること?
果たして、このようなことが「あるべき姿」、大人の必要条件なのか考えてみてください。
「そりゃあ、大人たるもの、そうあるべきでなくちゃあ!」と思った方、
本当に自分の心の奥底から、それが自分のありたい姿ですか?
「やっぱり、そうだ!」と思うなら、
「あるべき(should)=ありたい(want)」
となっているので、全く問題ありません。
しかし、「う〜ん…」と少しでも考え込んでしまったアナタ。
それは、今一度、周りの意見に引っ張られている可能性があり、
「あるべき(should)≠ありたい(want)」の状態です。
つまり、
「あるべき(should)論」を無条件に受け入れることが、ものすごく危険
だということを分かってほしい、ということです。
というのも、かくいう僕も、ちょっと前まで「こうあるべき論」にドップリ浸っていたんですね。
でも、ありがたいことに、その当時、所属していた部署長から言っていただいた言葉があります。
「公平くんは、よく『すべき』という言葉を使うよね。僕もそうだから分かるんだけど、『すべき』って言うと完璧主義になって柔軟に周りの考えを受け入れられなくなる。若い部下の人たちからの意見を遮断しないように、意識的に『すべき』という単語は使わないようにしてる。だから、公平くんも、『すべき』というよりも『した方が良い』くらいの柔らかい言い回しにしたら良いかもね。」
自分では全く考えたことがなかった分、新しい気付きでハッとしました。
僕は、「すべき」という目に見えない鎖によって自分自身を締め付けていたんですね。
それから、「した方が良い」とは、どういう意図が含まれているんだろう、と何の気なしに考えていたら、これまたハッと気付いたんです。
それって、自分の希望、「ありたい(want)」ものなんじゃないかと。
巷には、たくさんの「あるべき(should)論」が蔓延っています。
男だからこうすべき…
女だからこうすべき…
社会人だからこうすべき…
学生だからこうすべき…
でも、ハッキリ言います。
「あるべき姿」なんてありません。
あるのは「ありたい姿」だけです。
だから、大人になったらなっていたい姿、つまり自分の「大人の理想像」があるだけです。
自分の夢や希望が、ただ「あるべき(should)論」によって覆い隠されてしまっているだけです。
その状態でいることが、何も考えずに社会の通説に従い頭を使わないから、本当はラクなんですね。
しかし、そのことに早く気付くことが自分を救い、ひいては社会のためになります。
繰り返しになりますが、決して「あるべき(should)姿」なんてものは無いです。
この幻姿が、閉塞感を創り出し生きづらいと思うような社会を生み出してしまいます。
【周囲に惑わされず、若いときの感性を大切に。】
この「ありたい(want)」という感覚は、大人になるにつれて忘れていくものです。
これは別に、誰が悪いとかいう話ではなくて、あくまで生きるうえでの自然なことだと思うんです。
だから、若いときの感性というのは非常に大切なんですね。
この重要性については、詳細は過去の記事をご参照ください。
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いつも、若々しい気持ちで。年齢を重ねるたび、新しい自分と出会う。
生まれてから、子供〜青年期の頃の感性って、本当にかけがえのないものだと思います。
僕も今年27歳になる年齢なので、若いといえば若いかもしれませんが、
十代のティーンの方々は「ありたい姿」への無限の可能性があります。
だからこそ、自分の夢に向かって進んでほしいと思いますし、
親や教師などのドリームキラーの声を気にしないで、と伝えたいです。
もちろん、大人になってからでも遅すぎることなんてありません。
この「あるべき(should)姿」という魔物に気付き、追っ払うことができれば、
必ず生き生きと自分の人生を創り上げることができます。
この魔物を生み出してしまっているのが、「周囲の意見」というわけです。
他人の意見の中にも、理想に近づくための自分に取り入れた方が良いものもありますが、
形を変え「あるべき(should)論」になっていないか、十二分に注意する必要がありそうですね。
「ありたい(want)論」で自分の人生を創り上げる人たちの夢が叶いますように。
それでは、今回これにて失礼します。
皆様に、心よりの感謝を込めて。
公平