どーも。職場にも実家にもアクセスの良い新居にただひたすら感動中、公平です。
さて、この週末に敬愛する夏目漱石先生の本を大量に購入したわけなのですが、
その中で、まず中学生以来の『坊っちゃん』を読んでみようと思い立ちました。
この本をサクッと読んで改めて考えたのが、「正義」ってなんなんだろうということ。
そんなわけで、今回は
「正義をつらぬく難しさ」について少しお話ししたいと思います。
【『坊っちゃん』ってどんなストーリー?】
夏目漱石の『坊っちゃん』っていうタイトルは知ってるけど…ストーリーまではちょっとワカラナイ…
という方は、意外と多いのではないでしょうか?(数年前に嵐の二宮くん主演で映画化もしましたね!)
ということで、まずは作品紹介から。
松山中学在任当時の体験を背景とした初期の代表作。物理学校を卒業後ただちに四国の中学に数学教師として赴任した直情径行の青年“坊っちゃん”が、周囲の愚劣、無気力などに反撥し、職をなげうって東京に帰る。主人公の反俗精神に貫かれた奔放な行動は、滑稽と人情の巧みな交錯となって、漱石の作品中最も広く愛読されている。近代小説に勧善懲悪の主題を復活させた快作である。
この物語は、主人公である坊ちゃん(東京出身)が四国の学校に赴任したところからスタートし、
様々な人たちと交流しながら、自分の正義をつらぬきながら衝突していくというお話です。
あくまでザックリとしていてだいぶ私見もありますが(笑)、だいたいこんなかんじのストーリー。
やはり名作と言われるだけあって、この本の解釈の仕方は読むたびに変わっていきますが、今回は
「自分の生き方(「坊っちゃん」の正義感の強さ)」を曲げない、ということが非常に印象的でした。
登場人物として、学校という組織の中で
- 狸(校長先生)
- 赤シャツ(陰気な策士である教頭先生)
- 野だいこ(赤シャツの腰巾着である美術の教師)
- 山嵐(数学教師の堀田さん)
- うらなり(気の弱い英語教師)
などなど、破壊力バツグンな人たちが出てきます。
そして「坊っちゃん」の地元には、奉公人である「清(きよ)」という下女がいます。
(この方は、最後の最後まで無鉄砲な「坊っちゃん」の味方であり続けました。)
この物語の最後には、「坊っちゃん」と敵対する「赤シャツ」との対決シーン(?)があるのですが、
そこでも、曲がった事の大嫌いな「坊っちゃん」の姿が余すことなく描かれています(笑)。
しかしながら、たしかに勧善懲悪の痛快物語と捉えればそれもひとつの見方ではありますが、
どうしても切り離せない「人とのつながり」という視点を入れると少し物語のカラーが変わってきます。
【考えの違う人を相手につらぬく「正義」の難しさ】
この世の中に生きている以上、他人と関わり合い、そして支え合うことをしていかなければいけませんが、
特に、「学校」だとか「会社」などの組織においては、「自らの正義」を主張することが簡単ではありません。
おそらく、自分の中で決して曲げることのできない「信念」があったとしても、それが、
「組織のビジョン」と一致してないのであれば、そこは妥協せざるを得ないのかもしれません。
まさにこれが、生きることの難しさにつながっていくのかなぁと感じています。
今回の『坊っちゃん』の作品でいうと、葛藤しながらも最後は自分の正義をつらぬきとおしています。
これができれば、本当に本当に楽しく生きやすい世界になること間違いなしなんですよね…!(笑)
ですが、もちろん現実はそうはいきませんよね。
周囲への気遣いがありながら、自分以外の方の意見も尊重する必要があります。
そういった意味では、「正義」と「気遣い」のバランスというのが非常に重要になってきます。
では、このバランスについてですが、ズバリ【正義:気遣い=8:2】が最適でしょう!
というのも、所詮はヒトなんて自分自身がいちばん好きで自分自身が最優先の生き物だからです(笑)。
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こう言っちゃうと「そりゃあ身もフタもないよ!」という方もいらっしゃるかと思いますが、
結局は、人のためにする「利他主義」というのは自分の幸せを満たす「利己主義」なんじゃないでしょうか?
そして、この自分の中の正義をつらぬくことがまわりまわって多くの人の幸せにつながっていくのだと思います。
もちろん、気遣いナッシングの人は自己中以外の何者でもありませんから、【正義:気遣い=8:2】なのです。
ということで、
全部で p.170 ほどの『坊っちゃん』から是非「正義」ということを考えてみてはいかがでしょうか?
それでは、今回これにて失礼します。
皆様に、心よりの感謝を込めて。
公平