どーも。正月ボケが抜けきらずポケーっとしている今日この頃、公平(@kohei_nagura)です。
さて早速ではありますが、東京オリンピックがある2020年に突入したということで、
つまり【「多様性」って何なの??】という話をしていきます。
【目次】
【一般的な大人のいう個性とは?】
〔平均化を促す日本の教育〕
まずは、「多様性」の話をする前に平均化を強いる日本の教育という話からスタートします。
というのも、普段「塾講師」という仕事に携わっているなかで、
あまりに「子ども」に普通であることを強制するという日本の教育が「多様化」を妨げている
と感じているからです。
正直、ここが日本の国民性の良いところというのか悪いところというのか、「自由資本主義」を謳っている割に、
みんなで平等に進んでいかなければならないという「共産主義」的思想が日本の教育には根強く残っている気がしています。
たとえば自分の所属する塾でいうと、たくさんの「個性的な(=平均化していない)」生徒さんが入塾してきます。
そして、彼ら彼女らは「普通ではない」を理由に多くの大人からプレッシャーをかけられてきた子どもたちです。
その結果、自分に自信がなかったり社会に大きな怒りを感じるというようになるのです。
もちろん、「その気持ちが社会を動かす原動力になる」可能性もありますが、と同時に
「数々の目が摘まれていく」という現状も否めないのが日本の教育の問題点なのです。
〔自分の個性を抑える子どもたち〕
では、そんな平均化を促されている子どもの将来、ひいては日本の未来はどうなるのでしょうか?
なんも頭を使わず「日本人の規範(だと思い込んでいる)」と称して子どもに押しつける無能な大人たちによって、
輝かしい未来がある子どもの考え方を変形させ、子どもは自分の個性を抑えていってしまうのです。
そして、数々の国が失敗してきた「いずれ社会主義では国が滅びる」という歴史がくり返されるでしょう。
しかし、日本の教育は建前上「個性を伸ばしていけ!」というように発信しています。
ただ、それはあくまで「大人の想定内での『個性』」というものであり、
その「想像を超えてくるような『個性』」に対しては容赦なくつぶしていきます。
要は、大人にとって不都合な自体を生み出すような『個性』はいらないという解釈なのです。
それが、一般的な「大人のいう『個性』」ということになります。
その「大人のいう『個性』」の範囲内で生活していった結果、子どもたちは「平均化」した存在になり、
社会の中でガマンしながら、個性を隠し生きづらさを感じたまま大人になってしまうのが日本の現状です。
特に、生まれながらに「個性」があるような方などはいっぱい日本にもいらっしゃるでしょうし、
そんな「一般的な大人の『個性』理論」で進めていけば間違いなく日本の教育は破綻するでしょう。
【世界が「多様性」に寛容になるという居心地の良さ】
〔キャラクター化されてもラベリングされても全然いいんじゃないの?〕
では、やっとここから本題の「多様性」という話に入っていきます。
ここまで、平均化を促す日本の教育が「個性」を抑え込む子どもを量産するという話をしてきました。
ただですね、こんな「個性」をツブすような共産主義的な日本の学校教育を続けていったら、
子どもたちが「あ…ほかの人と違うことしちゃいけないんだ…」と思うようになるのは当然です。
例に漏れず、いま働かせていただいている職場は「個性のカタマリ」のような子どもたちがいらっしゃる塾なので、
これまで周囲の大人(学校の先生や親など)が平均化を無意識に強いて「脱・個性」を促された子どもたちばかりです。
そんな中で彼ら彼女らに日頃から伝えるているのは、
「『キャラクター化』『ラベリング』を逆手にとれ!」ということです。
偶然にものび太くんがテストで100点を取ってしまった!
すると、パパ、ママ、スネ夫、ジャイアン、しずかちゃんは、「もしかしたら、のび太は、頭がいいのかもしれない」「やればできる奴なんだ」と思います。(誰だってやればできる)
「何をやってもダメなのび太」から「やればできる子」にラベルが張り替えられます。
すると、のび太くんは、次第に100点を取るような子に育っていきます。まるで周囲のラベルを裏付けるかのように。
「のび太くんがテストの成績が良くない」のはなぜだと思いますか?
のび太くんといえば、ご存知ドラ◯もんのテストで0点をとるのでお馴染みの少年ですが(笑)、
そんな彼が、もし仮に「テストで100点を1回でも取得したとしたら」状況が大きく変わってきます。
そうすると、簡単に何が変わるかというと「自分の個性(だと認識しているもの)」が変わります。
すなわち、それがここでいう『「ラベル」が貼りかえられる』というわけです。
これを少しずつ貼りかえていけば、もちろん自分に対する「ラベル付け」「キャラクター決め」が変わっていき、
最終的には「自分の個性への認識」が大きく変わり「あ!自分の思うがままに生きればイイんだ!」という考えになるのです。
そして、ゆくゆくは「周りの大人に惑わされない『個』をもつ自立した人間」になるのです。
こうして、
息のしづらい(=生きづらい)世の中から大きな変貌を遂げていけるのです。
〔多様性=自由になり他人の靴を履くこと〕
そんな「個性を押し出せるようになった社会」が展開していくと、次第に「多様性」が増していきます。
あ…今さらではありますが、多様性を改めて定義するとこんなかんじ。
ダイバーシティとは英語で「diversity」と表記して日本語では多様性と訳し、多様性とは「異なる性質の存在が幅広く存在する」ことを指しています。
たとえば生物の多様性と言えば、地球上にはいろいろな生物が存在しお互いに相互関係を築きながら存在しているという意味になりますし、人種のダイバーシティと言えば白人も黒人もアジア系もヒスパニックも存在しお互いに尊重・理解合うことを意味します。
まぁ、おそらくニュースや新聞でたくさん取り上げられているのでイメージがつかみやすいかと思いますが、
だからこそ余計に雲を摑むような存在なのが「多様性(diversity)」という言葉かなと思います。
そんな折、元旦付けの朝日新聞の朝刊にて、こんな対談を見つけました。
ブレイディ(みかこさん、以下略) 息子の期末試験で「エンパシーとは何か」に答えさせる問題が出たんですね。私が辞書で調べたら、他人の感情や経験を理解する「能力」とありました。
福岡(伸一さん、以下略) 息子さんは試験用紙に「自分で誰かの靴を履いてみること」と書いた。いい答えですね。
(中略)
ブレイディ 「他人の靴を履いてみる」と言っても、「くさい靴」も「ダサい靴」もある。考えたくもない人の立場に立って発想してみるって、すごく難しい。「他人の靴を履こう」とする力を人間は本来的に持っているものなのでしょうか。
福岡 持っていると思いますが、自ら学ぼうとしないと自分の利他性に気づけないんです。何も知らないままでは他者の立場を考えられない。偏見や強者の支配にとらわれてしまいます。学ぶのは「自由」になるため。そして「自由」になれば、人間は「他人の靴を履く」こともできると思うんです。
ブレイディ 自由になって他人の靴を履くって、しみじみいい言葉だなあ。
多様性を意識して行動することは、「共産主義的な日本の教育下」ではメチャクチャ難しいわけです。
しかしながら、生物学者の福岡伸一さんが「多様性」を生物学的に語るところだと、
「学んで、自分の利他性に気づき、自由になり、『他人の靴を履く』」ことが多様性につながる」とのことです。
これが的を得てるというか、「他人の靴を履く」なんて日常で滅多にないことですもんね。
ましてや、ドブに入りたてみたいな靴なんて進んで履きたいなんて思わないでしょうから(笑)。
つまりは、「自分の中にある多様性の力に気づくこと」が大事であり「それを促進する日本の教育」も同時に非常に大事になってくるのです。
[日本語で聴くTED talks]レベッカ・ワン 自分の中にある多様性の力
ちなみに、「多様化」をさまたげる「偏見」や「差別」については過去に書いていますので、
ここのあたりを詳しく見てみたいという方は、ぜひ以下の記事をご参考にしてみてください。
www.life-travel-consultant.com
www.life-travel-consultant.com
【まとめ:あなたにとっての「多様性」とは?】
ここまで、「個性」から始まり「日本の教育」に触れ「多様性」の話をしてきました。
いろいろと考えてきましたが、ここで改めてアナタにしてほしいのが「『多様性』って何だろう?」という根本的な問い。
これを考えることで「ダイバーシティ」への理解が格段に深まり、最終的には生きやすい良い社会へとつながっていきます。
考え方は人それぞれなので、今回の話は考えの一助にしてもらえればと思いますが、
「個性」を最大限に生かし「多様性」を尊重しあえる世の中をつくっていきたいものですね!
それでは、今回これにて失礼します。
皆様に、心よりの感謝を込めて。
公平