どーも。ひょんなことからNHK Eテレ番組「びじゅチューン!」 にドハマり、公平(@kohei_nagura)です。
さてさて、前回まで2週間にわたって【確率論】のお話をさせていただきました。
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それでですね、
「『絶対なんてことはない』というところがもっと知りたい!」
というコメントが多かったので、今回はその話をもうちょっとだけ深掘りします。
というわけで、本日は「なぜ『絶対ということがない』か?」という具体的な話をしつつ、
あわせて、「とにかく『教養』をつけるべし!」という話をさせていただきたいと思います。
ひとつの考えをむやみやたらに盲信しないこと!そのためには『教養』が必要!
【目次】
【バイブルを否定せよ!】
どこかに絶対的に正しい答えがあるんじゃないかと考えること自体を止めること。バイブルとカリスマの否定というのが、僕の基本的な世界観になります。
(引用:『2020年6月30日またここで会おう』より)
これ、昨年47歳で亡くなった投資家で教育者の瀧本哲史さんの言葉です。
人っていうのは単純なもので、だいたいほとんどの方が「唯一絶対のわかりやすい答え」を求めてしまいます。
そのいい例が「バイブル」、つまりは「聖書」です。
この聖書を読んだことがある方はわかるかと思いますが、
「こういうふうに生きていきなさいよ」という神が示した「答え」が書いてあります。
キリスト教の元であるユダヤ教やコーランを教典とするイスラム教も、この『バイブル』要素が非常に高い宗教です。
なにをしたらよいかと人が行動に迷ったときに教典をヒモ解いてみると、
「そういうときはこうしなさい」といったかんじで指針が示されています。
そのため、「なるほど!ああ有難い…」と迷わずに済むということです。
これを、瀧本さんは「バイブルを否定せよ!」「むやみやたらに『法則』と言っている人はインチキだ!」とバッサリ切っています。
テレビやSNSで有名な人、メディアに出るような人は、頭がいい人が多い。彼らは、一見正しいことを言っているように見えるが、なんだかんだお金や、影響力が目当てで、うまく洗脳的な活動を分からないようにやっている。はっきり言いますが、真の教えとか「法則」みたいなことを言う人は、全員インチキです。
(引用:『2020年6月30日またここで会おう』より)
このような「絶対的」な雰囲気をかもし出している人に、ほとんど日常でなにも考えてない人は特に引っかかりやすいです。
つまるところ、自分の頭では考えず盲信するからラクなんですよね。
人間とにかく生きている間に数えきれないくらいの「選択」をするわけなので、
その都度、脳のメモリを少しずつ消費し気づかぬうち疲労してしまいますもんね。
だからこそ、徹底的にバイブルを読み込んだあと自分の頭で考える必要があるということです。
よくビジネス用語として聞かれる「TTP(徹底的にパクる)」というコトバ。
あれも勘違いされがちなんですが、まずは「師匠の思想」をパクったあと、
「自分のオリジナル思想」をつくりあげていこうぜ、ということなのです。
いってしまえば、「『守』『破』『離』(しゅはり)」の中の『破(は)』からの『離(り)』が必要だということです。
※『破』は、師の流儀を極めた後に、他流も研究すること。その型を自分と照らし合わせ、自分に合ったより良いと思われる型をつくることにより、既存の型を『破る』こと。『離』は、自己の研究を集大成し、独自の境地を拓いて一流を編み出すこと。師匠の型、そして自分自身が造り出した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から『離れる』こと。
このように、
自らの頭で考えオリジナルをつくりあげていかないと、ただのマニュアル人間が大量生産されてしまいます。
そういった意味で、この日本の現状に警鐘を鳴らすべく、瀧本さんは
「バイブルを否定せよ!」ということを伝え続けてくれたのだと思います。
【なんのために『教養』を身につけるのか?】
ということで、もうここまでくれば「なぜ『バイブルを否定せよ!』となるのか?」ということがわかるでしょう。
つまり、『教養』をつけて「絶対的なことを盲信しないようにする」ためです。
こんなんは、めっちゃ当たり前のことですね。
しかしながら、この世の中の多くの方が見落としがちです。
以前アメリカ大統領選2020の記事で、こんなようなことを述べました。
先日、実家に帰ることがあり、母が 「トランプさんじゃなくて良かったよ!」「最後も法廷にまで持ちこもうとしてあがいてる…」と言っており正直あきれましたね。というのも、ただメディアに踊らされているだけで情報を集めず自分の頭で考えずに意見を言っていたのが丸見えだったからです。この世の中、テレビなどの大手メディアに踊らされてる人は、流したニュースをそのまま鵜呑みにするんでしょうね。
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要は、こういうことです。
それ、あなたが自分の頭でちゃんと考えてから意見を言ってるの?ということです。
アメリカ大統領選で「トランプは退陣しろ!」ということを自分の頭で考えていると言ったとしても、
本当のところは「アメリカの歴史」だったりとか「深いところの文化背景」などの知識が必要です。
そのような『教養』がないと、当然ですがメディアのうまく表現した情報を鵜呑みにすることになり、
あたかも自分が考えたがごとく我がもの顔で意見を言い、恥ずかしい思いをすることになりがちです。
なので、当然自分を救うのにも『教養』はなによりも重要なものです。
そして、この『教養』の役割とは他の見方や考え方があり得ることを示すことです。
これ、やはり塾講師という仕事がら、めっちゃ生徒に聞かれる質問です。
「ん〜、やっぱ『教養』って学んでおいた方がいいスか?」と。
そんなとき、僕は「砂場」のたとえを用いながら「深掘り」の話をします。
「もしキミがさ、めっちゃ極めたいものが見つかったらどうする?」
「ま、当然のことながら、その極めたい関連のことをいろいろと調べますわな」
「ただ、そんななかで『あ〜わかんね〜!』ってことがでてくるじゃん?」
「たとえば、キミが『英語』を極めたいとしよう」
「したら、すごい勢いで『英単語』『イディオム』つめこんで『英文法』を学んでから長文を読むでしょ?」
「でもさ、当然のことながら、早慶とか難関国公立の問題はムズすぎて読めないことも多いわけで」
「そんなとき、もちろん単語力とか文法力も足りないこともあろうけど、なにより読む長文の日本語がなに言ってっかワカランわけで」
「それは、医学部であれば当然『遺伝学』とか『生理学』とか、また経済学部だったら『経済』関連の背景知識が必要じゃん?」
「つまりさ、これが『教養』なわけさ。昔さ、幼き頃にキミが公園で砂場を掘るときさ、どうやって掘った?」
「いきなり1ヶ所をガンガン掘ったわけじゃないしょ、まわりからある程度広めに掘っておいてから1ヶ所を深く深く掘ったしょ」
「それって、実は『教養』と一緒。まずは広く浅く『教養』を学んでおいて、そこから自分が一生をかけて学びたいことを深掘りしてけばいいじゃない」
こんなふうにして、
いろいろな他の見方や考え方があり得ること学んでもらい『教養』をつける大事さを伝えています。
【教養=語彙(ごい)力】
ここまで述べたように、自分で考えるためには『考える枠組み』が必要です。
その枠組みこそが『教養』であり、言い換えればリベラルアーツであるということです。
社会からの攻撃から身を守るためにはどうすれば良いのでしょうか?それは、ズバリ勉強する以外にありません。ここでいう、「勉強する」とは「情報を集め有益なものを蓄える」ことです。勉強することで、世間での常識(と思われていること)と戦うことができます。
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以前、「社会にツブされないためには『勉強』せよ!」というお話をしましたが、
これ、いまのコロナ時代によりいっそう必要とされる考え方なのではないでしょうか?
普通に考えれば、不安定な時代だからこそ「『絶対的なバイブル』に立ち返ろうぜ!」ということにもなりそうです。
しかしながら逆に、その「『絶対』に裏切られるリスク」もかなり高いといえます。
そもそも、前回と前々回の『確率論』や『量子力学』を考えると、もう
「この世に『絶対』なんてことはない!」ということが物理学的にも数学的にも証明済みです。
なので、まずは
勉強しまくって『教養』を身につけること我が身を救う唯一の方法
だということなのです。
…とまあ、ここまでが「『教養』の大切」についてでした。
ここからが、やっといよいよ本題(笑)。
ちょっとだけムズかしい話をなので、しばし気合を入れて読んでくださいね。
その方法論ですが、『教養』は漠然と勉強するのではなく『語彙(ごい)力』を意識して身につけることです。
すなわち、『語彙(ごい)力』=『言語』ということです。
そして、この『言語』には古代ギリシャ時代から2つの機能があると言われています。
それが、【①ロジック(論理)】と【②レトリック(修辞)】です。
もともと古代ギリシャで生まれた哲学的な言葉で、非常に抽象的な概念をあらわす「ロゴス」という言葉があります。そして、この「ロゴス」の語源は"legein"というもの。この"legein"という「拾い集める」という動詞から派生しており、 そこから、「論理」などの抽象的概念である「ロゴス」が生まれました。
(中略)
この「ロゴス(logos)」には、「言葉」という意味もありましたね。
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つまり、言語を表す「ロゴス(logos)」は論理を表す、つまり【①ロジック】が中心なわけです。
ただ、もうひとつ大事な要素があり、それが【②レトリック】というもの。
簡単にいってしまえば、ロジックは論理構造であるのに対して、レトリックは伝達の技法のことなんです。
すなわち、レトリックは「う〜ん、どう伝えようか…」を考え実行することです。
たとえば、あなたが友人に誕生日プレゼントを渡したいとします。
その友人にただ普通にプレゼントしただけでも、もちろんそれはそれで喜んでくれるでしょう。
ただ、その友人を自分の家に呼んで、さらに多くの友人たちを呼んで、
クラッカーを「パンッ!」としながら拍手喝采のなかプレゼントを渡す方が感動は大きくなりませんか?
これぞ、まさにレトリック、相手への伝え方ひとつなわけです。
そして、ちょっと話が寄り道してしまいましたが、この【②レトリック】が『教養』を身につけるうえでのキーポイントになります。
当然【①ロジック】も大切なことなのですが、これは『ロジカル・シンキング』などなど学ぶことが多々あり習得するのに時間がかかります。
その点【②レトリック】は、どちらかというと入りやすい分野です。
にもかかわらず、この『レトリック(修辞)』こそ「反復法」「比喩法」「擬人法」「誇張法」など、
語れば語るほど奥がかなり深いものなので、詳しくは別の機会にでも譲りたいと思います(笑)。
ま、とにかくとにかく「ただ伝えたいことをストレートに伝える」よりは「少しだけ含みをもたせた」方が『教養』がハンパないということです。
そんな人こそ、周りの人たちから憧れられて好かれて一目置かれる存在となるでしょう。
んで、めちゃくちゃまわりまわって原点に戻ると、そんな『教養』たっぷりな人こそ「絶対的なことを盲信しない」人となるということですね。
短期的に見れば「バイブルのような絶対のもの」にしがみつくのは良いことかもしれませんが、
長期的に見ると、そもそも論『絶対はない!』のですから、将来的にはガタがくるはずです。
なので、「『教養』こそ絶対かもしれない」という永遠の謎を新たに投げかけつつ(笑)この話をおひらきにしたいと思います。
この「『絶対』を盲信しない」話をふまえて僕もあなたも、さらには全国民が「教養人」になっていきたいものですね!
それでは、今回これにて失礼します。
皆様に、心よりの感謝を込めて。
公平